Report

議会報告:議事録

TOP > 議会報告 > 議事録

171-衆-厚生労働委員会-16号 平成21年06月05日

○桝屋委員長代理 次に、とかしきなおみ君。

○とかしき委員 自由民主党のとかしきなおみでございます。
 本日は、非常に重たいテーマでありまして、私も緊張しておりますけれども、心を込めて一生懸命質問をさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 私たちは、生きるとは何なのか、死ぬとはどういうことなのか、多分、医療の技術の進歩によって、倫理観とかモラルとかこういったものが非常に問われるようになってまいりました。このときに答えを出す一つの方法として、私は、さまざまな人の立場に立って、その人の気持ちから見たらこれはどういうふうに見えるのか、ここをやはり想像を豊かにして考えていく、そこに解決策が見えてくるのではないかなと思います。
 きょうは、さまざまな立場からちょっと質問をさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 この臓器移植法の厚生労働委員会での審議が始まりましたら、私のところにネットを通じましてたくさんの意見が寄せられてまいりました。その中で一番多かったのは、脳死を人の死としないでほしいという声でありました。私の子供はまだ生きているのに死とされてしまうのでしょうかとか、そういった意見がたくさん届けられたわけでありますけれども、これは大きな誤解であると私は思います。臓器法のA案は、脳死を人の死とする案ではなくて、脳死を人の死とする権利を認める案だと私は考えております。残念ながら、一部のマスコミの報道のように、簡潔な一覧表をつくられてしまって、このような誤解を生んでしまったんだと思います。
 そこで、A案の提案者の方にお伺いしたいんです。脳死を一律人の死とする案であるという誤解で多くの国民の方が受け取っていらっしゃるようなんですけれども、その点についてもう一度、さっきから何度もお話ししていますけれども、わかりやすい言葉で御説明をいただけますでしょうか。

○冨岡議員 もう一度申します。
 提出者としては、脳死は一般に人の死であるという考え方を前提としてこの改正案を提出しております。
 ただし、ここで御注意いただきたいことは、脳死は一般に人の死であるというのは、改正案の前提となる考え方であるにすぎないということであります。臓器移植法は、臓器の移植に関連して脳死判定や臓器摘出等の手続等について定める法律であって、臓器移植以外の場面について、一般的な脳死判定の制度や統一的な人の死の定義を定めるものではありません。したがって、この改正案がもし仮に成立したとしても、臓器移植以外の場面における脳死判定によって、当然に脳死が人の死として取り扱われることにはなりません。
 なお、この改正案では、脳死を人の死と考えない人に配慮して、法的脳死判定を受けることを本人及び家族が拒否することができることとしており、脳死判定を受けることを強制されることがないようにしております。
 また、委員がおっしゃったように、権利を認める法律という表現は私自身も賛同するところであります。要するに、受けたい人、受けたくない人、どちらでもいい人、おのおのの権利が担保、留保される、そういう法律の成立を私たちは目指しているところであります。

○とかしき委員 ありがとうございました。
 死というのは一体だれが決めるのか。本人か、医師か。私は、これはちょっと違うと思います。多分、これは家族が決めるのではないかと思います。脳死を人の死とするかどうか。今まで家族として一番長い時間をともに過ごしてきて、人生を共有してきた身近にいた家族が、生きるということとは、死ぬということとは一体どういうことなのか、本人の価値観も全部わかった上で、そしてこの人と決別をしようと決断したときに死が訪れるのだと私は思います。
 臓器移植を通して他者の体の中で生き続ける選択肢もあるのではないか、このように脳死を人の死として受け入れようとする家族、これも厳存すると私は思います。ですから、その権利をやはり法律としてしっかり認めてあげようよ、これがA案ではないかというふうに私は考えております。
 次に、臓器移植の決断をする家族の気持ち、こちらの方にちょっとスポットを当てて質問させていただきたいと思います。
 家族が脳死を人の死とお考えになった上で、臓器提供について承諾をされました。それに加えて、D案の場合は医療機関において確認を義務づけるということになっておりますけれども、これは家族にとってどのような心理的影響があるというふうにお考えでしょうか。

○西川(京)議員 お答えさせていただきます。
 今回、D案では家族の承認、承諾に当たって書面の提出を求めていますが、その提出に当たって、やはりインフォームド・コンセントが適正に行われているか、これはかなり大事なポイントだと思います。脳死でこういう状況になられましたとお医者様が言う、その中で、実はこういう制度がありますが、臓器提供についてお考えになられますかという御説明をするときに、家族に何らかのそういう圧迫があってはいけない、むしろ家族の心情に圧迫を加えるようなことがあってはいけないという、客観的に検証するシステムをやはりつくらなければいけない。そういうことで、この第三者機関というのを設けております。
 それともう一つ、今、こういうことはあってはなりませんが、A案では例えば児童虐待の問題なんかについての検証システムがありませんので、こういう問題をどうクリアしていくのかというのは、私は大変、A案ではちょっと危ないのではないかなという思いを持っております。

○とかしき委員 ありがとうございます。
 今、心理的圧迫を軽減するというお話がありましたけれども、私は、この手続で本当に家族の方々の心理的な圧迫が軽減されるのかどうか、正直疑問なところがあります。
 脳死を人の死として認めようというのは大変な決断だと思うんですね。まだ体温は温かいわけですし、当然人工呼吸器をつけて呼吸をしているわけですから、そんな本人を目の前に医師から脳死であると宣告をされて、それを受け入れようとした家族はどうするかというと、多分、複数の医師に確認をして、本当にこれは脳死なのか、本当に死んでいるのかというのを何度も確認を受けると思います。
 さらに、ほかの親族から、後日、あのときは実は死んでいなかったのではないかと言われる可能性も十分あるわけですから、当然親族と言われる人たちと十分話し合いをして、慎重なる話し合いを重ねて、その上において脳死を人の死として受け入れようと決断をするわけです。となると、これは想像を絶するぐらいすごい決断を家族は短時間にするということになるわけです。
 このように、本当に数々の障害を乗り越えて、自分の家族のことだけではなくて、この臓器をほかの人の家族のためにも役立ててもらおう、こういう本当に崇高なる決断をした家族に対してさらに医療機関の確認を義務づけしてしまうというのは、逆に、この崇高なる意思を尊重しないのではないか、心理的圧迫が増すのではないかというふうに私は考えます。
 私は、今本当に政治がすべきことは、この崇高なる家族の決断をやはり尊重して、その意思を最大限に生かすようにするためには、少しでも障害を取り除いていく、阻害する要因は少しでも取り除いていく、この努力をすることが大切ではないかと考えます。これこそが、大いなる決断をした家族への私たちができる感謝の気持ちの一番の表現ではないか、こういうふうに考えております。
 それでは、次にお伺いしたいと思います。
 今度は臓器提供する側の方々の家族の気持ちなんですけれども、親族に対する臓器の優先提供について、先ほど井上先生もお聞きになりましたけれども、D案はその優先権が認められておりません。先ほど臓器提供をするという本人の意思を優先させていくというお話がありましたけれども、このことについて、なぜここまで公平性を優先させていくのか、当たり前の感情よりも公平性を優先させなくてはいけないその理由についてお示しいただけますでしょうか。
    〔桝屋委員長代理退席、委員長着席〕

○西川(京)議員 お答えさせていただきます。
 今回のこの臓器移植の問題、まさに今とかしき先生が、家族の死を受け入れる残された家族の思い、これは大変なものだとおっしゃいました。まさに、そういうことを乗り越えてこの臓器移植という行為が許されている、そのことに対して、やはり私たちは大変重く受けとめないといけないと思うんですね。
 ですから、家族の思いはとても大事なことですが、しかし、その思いを優先する余り、この崇高な医学的行為を、まさに公平性の原理、このことを否定することになってはやはりいけないのではないか。そういう中で大変崇高な思いでやることであるからこそ、まさに公平性の原理をしっかりと守らなければいけない、私はそういうふうに思っております。
 そしてまた、家族とか親族のそういう思いを優先する余り、今度はそれが逆に、あの子を救うためにあの人が言ってくれたら、家族間、あるいはそういう、今家族の形態は大変いろいろな形態があります。そういう中で一つの例として、再婚同士で、片方が重い病気を持っている、それで片方の子供が脳死状態になった、そういうときに一体どうなるのか。私は、そういうことまでもやはり考えて、この問題は私たちは責任者として考えていかなければいけないと思います。ですから、やはり公平性の原理というのをしっかり守るべきだと思います。

○とかしき委員 ありがとうございました。
 私も、今のお話、少しはわかるんですけれども、やはり公平性というのがそこまで重視されなくてはいけないのかというのが正直私の意見であります。
 やはり、臓器移植をしようという一番の動機が、多分多いのは、親族にそういったものを必要としている人がいる、目の前で苦しんでいる人がいるから臓器提供をして、何かもし自分に万が一のことがあったとき、脳死状態になったときに提供してほしい、こういう気持ちを持つのは、私は自然の人間の行為ではないかなというふうに思います。
 その前に、これは公平性だから、その気持ちを無視して公平性を重視していきますよということになってしまいますと、やはり私は、臓器移植は逆に数がふえていかない、これは臓器移植をふやしていく上での一つの障害になっていくのではないかというふうに考えております。人間の素直な感情、親族への優先権、これにぜひ重きを置いて、血の通った法律にしていただく、これが私は大切ではないかなというふうに考えております。
 そして最後に、この臓器移植法の問題は、やはり個人の人生観、死生観、宗教観に深くかかわる、人間の根幹に抵触する問題であったために、今の臓器移植法が移植数がふえにくいという問題を抱えているという現状を把握しながら、その状況から目を背け、政治は一番選択すべきではない先送りという手段を無作為にずるずると選んでしまいました。
 その結果、ほかの国の人権を侵害する移植ツーリズムがふえて、先進国の中で臓器移植を海外に頼っている唯一の国とか、世界の臓器移植をあおっている国とか、そんなレッテルを張られてしまって、多くの国から非難されるゆゆしき事態となっているわけです。日本のこのモラルのない行動に対して、WHOもついに、日本を主要対象として、臓器移植は自国内でと決議しようとしているわけであります。
 このように、臓器移植の問題は、今や国内の自国民の死生観や人生観のみの問題ではおさまらないで、国際社会の中で、日本人が人の命をどう考えるのか、日本人、日本の国が考えている倫理観はおかしいのではないかと世界から突きつけられて、これが国際問題になっているわけであります。自国内の死生観に目を背けて、海外の人権を無視することでその負荷を解消しようというこの姿勢は、国益のみではなく、日本の国としての信用すらも傷つける、一刻も早く解決しなくてはいけない重要な懸案であると私は考えます。
 現在国際問題となっている臓器移植の課題を一番解決できるのは間違いなくA案であり、現行法を後退させるB、C案、現行法の微調整であるD案は、残念ながら、日本の国際的信用力を回復するには至らないと私は考えます。A案が今国会で成立して、日本の臓器移植を望む人と臓器移植をしようという崇高なる決断をした家族をお一人でも多く結びつけ、さらに、臓器移植の世界において、日本がモラルある行動をできる国として国際社会の中で一日も早く復権できることを切に望んで、質問を終わらせていただきます。
 本日はどうもありがとうございました。